創世記ノ-ト(3)

創世記ノ-ト(3)謙遜、従順、忠実。
『初めに、神が天と地を創造した。』 創世記1:1

前回はこの聖句に示されている三つの事、すなわち神の主権、神のみこころ、神の取扱いについて記しました。
けれども、今回はこの三つの事に関連している別の三つの大切な事について考えますが、それは信仰生活の基本に関する事です。それを解りやすくしますと次のようになります。

1.神の主権に対しては謙遜
2.神のみこころに対しては従順
3.神の取扱いに対しては忠実

であると言う事です。
そして私たちはその素晴らしい模範をピリピ2章6~8の主イェスさまの歩みから教えられます。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」 ピリピ2:6

キリストは、神の主権によって定められ、神がみこころとされた十字架の死という贖いのみわざを、実に忠実に成し遂げられた方です。
それ故に神はこのお方に、すべての名にまさる名を与え、最も高い所に引き上げられたのです。もう30年ぐらい前にある兄弟から教えられた事ですが、真の謙遜とは、ありのままで主の前に立つ事であり、また主のみこころに全てを委ねきって従う事であると言う事でした。
そして、その模範として主イェスの事を話されましたが、イェスは低くされる事においても、高くされる事においても全く父なる神に従順であられたこと、それがほんとの謙遜であると言う事でした。
日本人はよく自分を卑下して「私はつまらない者です。」とか、「これはつまらない物ですが。」と言いますが、心の中では決してその様には思っていません。
ですから、「あなたはほんとにつまらない人ですね。」とか、「つまらない物を戴きまして有り難うございます。」などと言うと、きっと怒るでしょう。
それは決して心から、「つまらない。」と思っていないからです。
ですから、日本人には聖書の示す真の謙遜が解りにくいのだと、よく言われます。
聖書の言葉は聖書の意味で受け取らないと大きな過ちをおかします。
その事は各自それぞれが、心に深く留めて置くべき事では無いかと考えます。
そして私たちも日々、主の主権を大切にして従い、事ごとに主のみこころを求め、主の取扱いのすべてが理解出来なくても委ねて祈りつつ歩みたいと願います。なお、この三つの事、すなわち、神の主権に対する謙遜、神のみこころに対する従順、神の取扱いに対する忠実の模範をもう一人の信仰の人、アブラハムから学んで見たいと思います。

『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょにここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。』 創世記22:1~5

アブラハムが75歳の時に、神は不妊の妻でしかも年老いたサラから、一人の子供が生まれると約束され、アブラハムが100歳の時にその通りになり、与えられたのがイサクです。
しかも神は、アブラハムとイサク及びその子孫を通して、地の全ての人々が祝福されると仰せられました。
にもかかわらず神は、「そのひとり子を全焼のいけにえとして、ささげよ。」と言われたのです。
常識的に考えれば、イサクが死ねば神の約束は反古になります。
また、長く待ってようやく与えられた、たった一人の子、最も愛するひとり子を、全焼のいけにえとしてささげよと言う神の言葉は、どれ程きびしくまた苛酷なものとして、アブラハムに響いた事でしょうか。
しかし、それでも信仰の人アブラハムは、その神の言葉に100%服従したのです。ここに私たちは、信仰の父と呼ばれている彼の、信仰と従順の素晴らしさを見せられます。
このアブラハムの行為を、先の三つの事に当てはめて見ますと次のようになります。

第一に、このアブラハムへの神の要求は、神ご自身の絶対的な主権に基づいていると言う事です。
そしてアブラハムは、彼の全き信仰から出た神への謙遜によって、結果がどうなるかを全く考えないで、そのひとり子イサクをささげたのです。真の謙遜とは、神が仰せられた事に対しては、何の疑問も持たず、不平をも言う事なく、神の善と全知、全能にすべてを委ねきる事です。

第二に、アブラハムが与えられたかけがえのないひとり子イサクを、全焼のいけにえとしてささげる事は、神のみこころであったと言う事です。
神のみこころは深く、永遠の時間と観点に基づいていますから、時としては人には全く理解できません。むしろ、理解できない事の方が多いと言っても良いでしょう。
人間は悲しい者で、有限の頭で物事を考え、捕らえ、また判断します。ですから、神の深遠なご計画やみこころが、なかなか分からないのです。
また、人間の希望や要望が強すぎると、自分の思いを神のみこころと勘違いします。
そして、自分の思いや願いがかなえられないと、神を恨むことさえするのです。
しかし、たとえ私たちに、理解できなくても、神が示される事がみこころとされるなら、自分の意思や希望を神ご自身の御手に委ねる時、神は平安を与え、また必ず最善を成して下さいます。
神のみこころへの全き従順は、内住の聖霊なる神の助けなしには出来ません。
そしてそれには、自分自身と自我が、十字架につけられて死んでいる事が、どうしても必要です。
アブラハムの神への従順は、まさに彼の十字架の死を示していると信じます。

第三に、神の取扱いに対しては忠実である事が求められます。
人が何かを取り扱いますと、多くの無駄な事をしたり、失敗を重ねます。その理由は、人には何が最善で、また、何時が最善の時であるかが分からない事が多いからです。
ですから、たとえばある人の事を取り扱うとき、相手の心の痛みや傷などを考慮しないで結論を出してしまいます。
また、しばしば配慮の足り無さの故に、間違った取り扱いをしてしまいます。それが善意でなされた事であっても、配慮や思いやりの足りなさ、説明の不足等などが重なるとき、とんでもない結果を出してしまいます。
所詮不完全で限界のある人間には、物事や人に関する完全な取扱いは無理だと言う事でしょう。
故に、徹底的な謙虚さと誠実さが要求されるのです。
また、信頼関係が確立されていないと、受け入れられる取扱いは、なかなか出来ません。
神のアブラハムへの取扱いは、何と素晴らしいものではありませんか。イサクの代わりに神は、初めから雄羊を備えておられました。
しかし、アブラハムには、勿論それが分かりませんでした。
ですから、神の取扱いに委ねきる信仰は、冒険的な信仰ですが、それは決して失望させられる事のない冒険です。
その冒険の繰り返しによって、人は神と神の素晴らしさを知り、神ご自身の栄光を見させて頂くのです。何と感謝すべき事ではありませんか。
聖書はこう言っています。

『「彼に信頼する者は、失望させられることがない。』 ロ-マ10:11

『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。』 Ⅰペテロ5:5~6

『従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。』 Ⅰペテロ 1:14~16

『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』 ルカ16:10

『その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」』 マタイ25:21

神の主権に対する謙遜、神のみこころに対する従順、神の取扱いに対する忠実、この三つの事に、いつも心を留めて信仰の道を歩ませて頂きましょう。

そのためには、まず何よりも祈りから始めることです。
もし私たちが、現実の自分自身の信仰生活と霊的な状態に満足していないなら、出来ることはすぐに始めるべきです。
人間はある事に感動しても、その事を出来ることからすぐに実行に移さないと、感動は薄れ消えていきます。ですから、聖霊のみ声を聞いたなら、何時までも待たず遅らせず、出来る事からすぐに始めるのです。明日は、何時まで待っても来ません。大切なのは今日です。

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」 ヘブル3:15

このイスラエルへの神の警告は、そのまま今日の私たちに対する警告でもあります。与えられた時、チャンスを失わないようにしたいものです。
聖霊に示されたとか、教えられたとか言いますと、ある人たちは、「今の時代にそんな事は無い。」と言いますが、それは正しい事でしょうか。
確かにカリスマ的な人たちの言うような極端な事や、聖書のみことばに反するような事を、聖霊なる神はなさいません。
しかし、私たちの内に住まわれるお方は、語って下さいます。
ある時はみことばを通して、他の場合は他の人を通して、また、書物や出来事を通して語られます。
それまで異端視されるなら、どうすればよいのでしょうか。
みことばだけを通してしか主は語られないと言うのが一つの信仰の在り方であるなら、他の方法を通しても語られるというのもまた信仰です。極端な排他的信仰は、神が与えようとしておられる祝福を見失わせます。

『「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」』 ピリピ2:13~14