創世記ノート(4)

創世記ノ-ト(4)創造と三位一体
「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。
やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」 創世記1:1~2

聖書の示す神は三位一体の神、すなわち、父、御子(キリスト)、聖霊と呼ばれる三つの位格をもってご自身を現わしておられるお方です。
この三位一体の神は、その存在、本質、目的のすべてにおいて一つであられるお方です。それは有限の存在である人間の知性や理性では理解出来ませんが、信仰によって受け入れることが出来ます。

この三位一体の神が万物の創造に関わられた事は、まず冒頭の聖句、すなわち、創世記1:2により第三位格の神であられる聖霊の関与のことが解ります。

そしてさらに次の聖句によって第一位格の父なる神の関与が示されています。「また、万物を創造された神…」 エペソ3:9
「主よ。われらの神。…あなたは、万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」 黙示録4:11

その他数多くの聖句がその事を示しています。
さらに第二位格の子なる神が創造者であられる事も、次の聖句によって明らかです。

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」 コロサイ1:16

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」 ヨハネ1:1~3

また、贖いのみわざにおいても三位一体の神が、それぞれの役割を果たされたことが、エペソ人への手紙1:1~14において、明らかにされています。
すなわち、1:3~6では父なる神のお働きについて、父は、選び、定め、祝福して下さった事が、そして、1:7~12においては御子なる神が、父のみこころに従って贖いの代価としてご自身を十字架上でささげて下さった事が、また1:13~14では、聖霊なる神が贖われた者が必ず御国を受け継ぐ事の保証として、証印となって下さった事が明らかに示されています。
これらの事を見ても、聖書の示す神は父、御子、聖霊の三位一体の神であられることは明らかです。
異端のもの、特にエホバの証人の人達は、その熱心さにおいては抜群で他の追随を許しませんが、最も大切なことに関しては霊の眼が閉ざされているようです。
その事は、使徒パウロが自分の同族であるユダヤ人について書いた事に類似していると言えます。

「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に(聖書協会訳によれば、”深い知識に”とあります。)基づくものではありません。」 ロ-マ10:1~2

また、次の聖句も関係があると思います。

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イェスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イェスは主です。』と言うことはできません。」 Ⅰコリント12:3

さらに次の幾つかの聖句もまた、神が三位一体の神であられる事を示しています。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイ28:19~20

「主イェス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。 」 Ⅰコリント13:13

エホバの証人の人たちは、御子なる神であられるイェス・キリストを、造られた神の子であると言い、また、聖霊なる神については、単なる影響力であるかのように言つています。
ですから、残念ながら彼らは救いも、救いの確信も持っていません。
神のことばはその全体が真理ですから、その一部を権威あるものとして受け入れても、全体をそのままに受け入れなければ、神の救いと祝福は受けられません。

さてこれは、直接三位一体とは関係がありませんが、三つで一つであると考えられるものは、私たちの知る範囲においても少なくは無いと思います。
たとえば、宇宙は、時間、空間、エネルギ-の三つのものから成り立っていることは、科学者たちもこれを認めています。
また、色は三原色からとよく言われますし、時間についても、過去、現在、未来と言う表現で表します。さらに私たち人間も三つのものから成り立っていると、聖書は示しています。

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イェス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですからきっとそのことをしてくださいます。」 Ⅰテサロニケ5:23~24

神と聖書の絶対性を堅く信じて立つことは、価値ある素晴らしい事であり、実に大きな神の恵みです。この恵みが無ければ誰一人として救われません。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。
「あなたの真実は力強い。
主こそ、私の受ける分です。」と
私のたましいは言う。
それゆえ、私は主を待ち望む。
主はいつくしみ深い。
主を待ち望む者、主を求めるたましいに。」 哀歌3:22~25

有限の存在である人間に神ご自身や、神のことばである聖書が全部理解出来るとしたら、神と言うお方は人間とあまり変わらない存在でしか無いと言う事になります。
しかし、そんな馬鹿な事は決してありませんし、また、あってはなりません。
現在は何事についても資格が物を言う時代です。ですから資格を持たないと出来ない事がたくさんありますし、またそれは必要な事です。
飛行士が資格なしで飛行機を運行させたなら、大変なことになります。時々医師免許を持たないで医療行為をする人がいますが、とんでもないことです。

これは本当に失礼な言い方なのですが、私は時々福音を伝えるときに言います。
「もし、神が神であられるために資格が必要であるとすれば、それはどんな資格でしょうか。」と。
そして私の考えは次の通りです。
まず第一に、神が神であられるための資格は、“自存自立”でなければなりません。
第二にその方は、無から万物を創造された方であるべきです。
そして第三に、すべてを保持し支配される方であり、
さらに第四に、時間を越えて永遠に存在されるお方であり、かつ、不変で無ければなりません。
第五に、その方は空間に支配されず、何時でもどこにでも偏在されなければなりません。
そしてさらに、第六に、あらゆる事のすべてを知っておられる全知、出来ない事の無い全能者であり、
また第七に、そのご性質、すなわち、聖、義、あわれみ、恵み、愛等あらゆることにおいて、完全なお方であられるべきです。
ではその様な神は何処に存在されますか。
聖書の神を除いては何処にもありません。

「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」 使徒17:24~25