バイブル・スタディ

創世記ノ-ト(7)

創世記ノ-ト(7)キリストと偽者 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。 創世記1:4 神が置かれた溝または淵のようなものによる区別は主イェスに関しても確かにあります。 そしてこの区別を神は絶対お守りになられるのです。これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイェスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。 マルコ9:7,8 これは有名な変貌の山の出来事です。イェスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて高い山に上られました。すると彼らの目の前でイェスの姿は白く光り輝く御姿に変わられました。さらにエリヤとモ-セが現われイェスと語り合いました。 これを見た弟子たちは驚き恐れ何をして良いのかわからなくなり、結局ペテロが言うべき事のわからないままに言いました。 「幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モ-セのために一つ、エリヤのために一つ。」 しかしそれは主イェスを他の二人と対等に扱うことですから神は拒絶され、「これは、わたしの愛する子である。」と言われたのです。 モ-セやエリヤがどんなに偉大な人物であっても人間であり、イェスは神が人となられた方です。 この区別をしない宗教や哲学には、勿論永遠のいのちの救いはありません。 しかし、異端的なキリスト教をも含めて、多くの宗教が実に何らかの形で、イェスまたはキリストの名を使っていますが、正しく使っていません。 主イェス・キリストを、単なる聖人または偉人の一人とするか、さもなくば宇宙人だとか、単なる教師の一人、または、宗教の開祖の一人として扱っています。そのいずれもが誤りであり、聖書は、イェスこそ唯一の神が人となられて、この世界に来られた救い主であられることを宣言し、一歩も譲りません。しかし、聖霊によるのでなければ誰も、イェスは主であると告白出来ないのです。 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イェスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イェスは主です。」ということはできません。 Ⅰコリント12:3 この告白の出来る事は、実にすばらしい事であり、神の恵みです。 これから、いよいよ世の終わりが近づいて来ますと、主イェスが言われたように、偽キリストや、偽預言者がより多く世に出て来るでしょう。そして、最後に出て来る反キリストと、その配下によってなされる多くの不思議や奇跡が、ますます多くの人を欺き、だますようになると思います。目を覚まして、主のご再臨に備えたいと心から願ってやみません。 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさ わしいものとなります。 コリントⅡ 11:13~15 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽わりの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。 それゆえ神は、彼らが偽わりを信じるように、惑わす力を送り込まれます。 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。 しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。 ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イェス・キリストの栄光を得させてくださったのです。そこで、兄弟たち、堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。 テサロニケⅡ 2:9~15. ここに大きな対比があります。 救われている者とそうで無い者、その相違はこの世ではあまり見えないでしょう。しかし、時が来て、主が栄光のうちに現われて下さるとき、その相違の大きさが明らかになります。 光と闇、キリストとサタン、真理と不法。神は、私たちにどちらを選ぶかの自由を与えておられます。それだけに、その結果は一人一人が取らなければならない責任です。 真理を示され、それを受け入れるように導いて下さった方、神の御霊の働きに心から感謝し、その方を遣わして下さった父なる神と、御子イェス・キリストの御名を心から賛美致します。 なぜなら、光りと闇の隔たりは永遠であり、今、光の中に救い出されている者は、もはや、闇の世界とは無関係ですから。 神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 コロサイ1:13~14.  

創世記ノ-ト(6)

創世記ノ-ト(6)人間と動物の区別 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。 創世記1:4 神は多くのものとものの間に溝または淵のようなものを置かれて区別された事を前回は考えましたが、聖書全体にはもっと色々なものの区別が出てきます。そしてそれは、考える以上に重要な意味のあることです。 神に敵対する悪魔は各時代にわたってこの区別を破壊し、溝または淵を越えさせることを神を信じない人々を用いて続けて来ました。ではここでその一つのもの、すなわち動物と人間の区別に対しての悪魔のした事について考えて見ましょう。今の私に解っていることは大体三つの事です。(1)進化論。進化論は動物と人間の間を理論的、かつ学説的につなごうと努力し、あたかもつなげたかのように教え宣伝していますけれども、それは単なる学説に過ぎない事が、最近はっきりしてきていますが、この日本ではそうした重要な事については、ほとんど正しく報道されていません。(2)動物の肉体を用いての人間の臓器の製造及び、動物の臓器の人間への移植。しかしこれは人間の持つ免疫機能による拒絶反応により阻まれています。それでもなんとか出来ると考え、しようと努力していますが、その事によって起こる事の危険性や恐ろしさは、あまり取り上げられません。 (3)遺伝子操作による動物と人間の何らかの接続。それがどの様なものであるかはまだ明らかではいませんが、不気味なものを考え出す可能性があり、罪深い人間か何を作り出すか予測できませんが空恐ろしいものを感じさせられます。 *四月末にクロ-ン羊のドリ-が、交尾により子羊を出産したという発表がありました。      と言う事はその子羊がさらにこどもを生むことが出来ると言う事を意味しており、それはさらに次々とこどもを生み続けることが出来ると言う事になります。しかもそれは人間にも適用できると言う事も言っています。      そうした事が継続されると、人間とは何か、自分はいったい誰の子なのかと言った、大変複雑な問題が生じて来る可能性があります。そうした混乱を創造主なる神は決して許されないと信じますが、この世界はますます混乱と複雑さを増し加えて行くようです。      いのちの道よりも、知識の道の方を選んだ人間の愚かさは、いつかその実を刈り取る事になるでしょう。神への不信仰と反逆の道には、真の祝福が無いことは明らかですが、それでも大多数の人はそれを認めようとはしません。罪とは、どこまでも恐ろしいものです。 私たちは、悪魔に騙されないように目を覚ましている必要があります。また、私自身はこの最も大切な、かけがえのない命について、人間がいじくり回すことを、創造者であられる神がどこまで許されるか、と興味を持って見守っています。 それは、この事に関しても、神ご自身が定めておられる許容限度に達するとき、必ず神がご自身の主権と絶対的な力を持って介入され、裁きを下されると確信しているからです。 そして、その一つの実例を創世記第六章のノアの時代の洪水による裁きに見ています。 主は、人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 …時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。 神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。 そこで神はノアに言われた。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。」 創世記6:5,11~13(聖書協会訳) 人類の創造者なる神への反抗と反逆が、神の許容の限界点に達するのは何時でしょうか。 それは私たちにはわかりませんが定められています。そして神はそれを必ず実行されますが、その事を確証するのが主ィェス・キリストの復活である事が、次のように記されています。 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方(キリスト)を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。 使徒17:31 この故に、今こそ主イェス・キリストを自分の救い主と信じて、神の裁きから救われる事が大切であり、かつ必要です。愛の神は長く忍耐されて、今もすべての人が救いを求めてご自身のもとに来るのを待っておられます。 しばらく前のことです。それはたしかアメリカのある生物学者が発表した事と思います。 二匹の猿の首と胴を切り離し、これを相互に入れ替えてつないだと言う事です。その結果、一匹は殺し、他の一匹は生かしたのです。こうして二匹の猿から、新しい一匹の猿を造り出しました。 そして、その学者は言いました。「これは、いつか人間にも応用出来る。」と。 今のところ脊髄をつなぐ事が出来ないので、その猿は動くことが出来ないとの事でしたが、近い将来には、脊髄の接続も出来ると言う事です。 人間、そして学者は、何と言う恐ろしい事を考え出すのでしょうか。勿論、それは神を恐れない人のする事です。 そして、その目的はいったい何でありましょうか。人の命を何時までも存在させるためであると言う事です。 聖書は、人が死ぬのは罪があるからであると断言します。 罪から来る報酬は死です。 ロ-マ6:23上句 人が神の前に無罪を立証する方法は簡単です。 死なずにいるか、死んでも復活すればよいのですが、それは誰にも出来ません。故に、人はみな、自らの死によって、その人自身が罪人である事を実証しているのです。 ですから神は、その罪人を救うために、そのひとり子イェスを救い主としてこの世界に送られ、罪人の身代わりとして、無罪のイェスが全人類の罪を負われ、十字架の上で罪に対する神のさばきを受けて死なれたのです。 しかし、イェスは、罪の全く無いお方ですから、三日目に死と墓を打ち破って復活されました。 そして神は、ご自身の主権とみこころによってお立てになったイェス・キリストを、自分の唯一の救い主と信じる人に、救い、すなわち、罪の赦しと永遠のいのちを与えて下さるのです。 これこそ、神の大きな恵みによる救いであり、この救い以外に、人を罪とその結果である死また滅びから救うものは他にありません。 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イェスにある永遠のいのちです。 ロ-マ6:23 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです。 Ⅱコリント5:21 「しかし、彼(アブラハム)の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イェスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。 主イェスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえれたからです。 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イェス・キリストによって、神との平和を持っています。 ロ-マ4:23~5:1 一度死ぬ事と、死後にさばきのある事は誰も否定できず、また、死後の運命は誰一人として変えられません。 ですから、今、生きている時に主イェスを信じて、永遠の命を神からいただくべきです。 少し余談になりますが、ここにもう一つの考えなければならない命に関する事があります。それが何かと言いますと、子供を生むことに関してです。 確かにこの世界には、結婚しても子供に恵まれない夫婦がいます。そういう場合、昔は誰かの子供をもらって育てるか、養子縁組をすることによって子供を持ちました。 もうかなり前からですが体外受精と言う事が行われるようになり、不妊の夫婦にも子供を持つ希望が与えられました。しかし、その場合にも卵子、精子の提供者は秘密にされていたと思います。はっきりとした法的根拠は無いようですが、一応それが守られていたようです。 けれども、今回の長野県下諏訪町、諏訪マタニティ-クリニックの根津八糸広院長は、非配偶者間の体外受精を行ない、卵子、精子の提供者を公表しました。 勿論、当事者の希望によるものであったと言う事ですが、やはり学会に問題を提供する結果となりました。 こうした事はこれからも行なわれるでしょうが、いろいろと厄介で複雑な問題を引き起こす事になりかねません。 神の定められた方法は、あくまでも結婚した当事者間で子供を生むことです。それがどんどん破られていくとき、家族間や社会に複雑な問題を起こすでしょう。時代遅れと言われるかも知れませんが、やはり神に従う所に、真の平和と平安があるのでは無いでしょうか。 命の問題は、科学と医学の発達と、技術の進歩に伴いますます複雑になり、新しい社会問題を生み出すでしょう。 やはり人間は、創造主なる神に従うべきであると強く感じます。  

創世記ノート(5)

創世記ノ-ト(5)光とやみの区別 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。 創世記1:4 神によって多くのものが区別されたことを、この創世記1章は記しています。1:4では光と闇、1:6では大空の上と下の水、1:14では昼と夜、1:15では再び光と闇(昼と夜)が区別されています。 そしてそこには明らかに何かを示す重要なことが隠されているようです。 暫く前に私はこの事から、直接区別という言葉は使われていませんが、もっと大切な区別の事を教えられました。創世記1:9~12にはすべての植物が、1:20~25では海の巨獣と水に群がりうごめくすべての生き物、翼のあるすべての鳥が、そして地の生き物、すなわち家畜、はうもの、野の獣が種類にしたがって造られています。 そこには区別と言う言葉が10回も使われています。 しかし、人間だけは種類にしたがって造られず、神ご自身のかたちに創造されたと明らかに書かれています。 そして私はこれこそが最も重要な区別であると受け止めています。すなわち人間は、動物から進化したものでは無いと言う事です。 この区別は別の言葉で表現すると、あるものとあるものの間に神は、絶対に越えてはならない溝または淵のようなものを置かれたと言う事では無いでしょうか。 そしてその事に敵対する悪魔は、あらゆる手段を用いてその区別を破壊し、取り除こうとしています。 その一つのものが進化論であり、多くの人がこの学説によって迷わされています。そこから出てくる一つの重大な事は、現代の社会における、あるいは教育においての真の生命の価値評価観の喪失、また誤解では無いでしょうか。 勿論過去においても皆無とは言えませんが、今日ほど知識が増しているにもかかわらず人の命が軽視され、かつ、その尊厳さが忘れられている時代は無いのではないかと思います。 あまりにも簡単に他の人の命を奪ったり、自殺に走る事の悲しさ。そこには何か重要なものが見失われていると言う感じがします。 しかし、人間の命の尊さと尊厳さをほんとに正しく知るためには、何が必要なのでしょうか。 言うまでもなくそれは創造主の権威あることば、すなわち不変の真理と言われている聖書に聞く以外にはありません。 「また聖書か。」と言われる前に、一度それを読まれる事を心から願ってやみません。今日の世界では、多くの事が誤解され、また、誤って考えられています。 その一つに、区別と差別と言うことがあります。差別という言葉を辞典で調べてみますと、次のように説明されています。 “ちがい。けじめ。分けへだて。また、不当な区別。” このうちの、“ちがい“と“けじめ”は何の問題もなく使われる言葉ですが、“分けへだて”と“不当な区別”は良い意味では使われません。 では区別はどうでしょうか。この方は辞典では次のように説明されています。 “別々に分けること”“さべつ”“けじめ” この二つの言葉には、双方に共通点もあるようです。 ですから、問題はその言葉を何処で、どの様に使うかと言う事に関係があるようです。従って良い意味に使えば問題は無く、悪い意味に使うと、問題になると言う事です。光と闇を区別された神は、良い意味において、様々なものを区別されますが、人々がよく問題にするのは、信者と不信者に対する区別です。 神は決して人に差別をつけておられません。神の前における人間は、すべて平等です。神の前には、重度の障害を持っている人の価値も、健全なからだを持って生きている人も、その存在の価値は変わりません。 ですから、神は罪深い人間の救いのためには、すべての人のために全く平等の救いの代価として、御子イェス・キリストの命をお与えになられました。 そして、キリストを信じた者には、神の子となる特権をすべての人に与えられます。 しかし、信じない人には、確かに厳しい裁きが下されますが、それは差別ではなく区別です。 よく人々はキリスト教の考え方は狭く、仏教の方が広いと言われます。何故なら、キリスト教では、罪を悔い改めてキリストを救い主として信じない人は滅びると言うが、仏教では誰でも死んだら仏になって極楽に行くのだからと言います。 それが、釈迦と仏教本来の教えであるかどうかは分かりませんが、もしそれが事実だとすれば、すべての人がそれで納得し、また満足するでしょうか。 有り得ないと思います。 自分の愛する一人子を殺されて、殺した人が悔い改めもせず、また裁きにも服さなかったとしたら、被害者の家族はそれで満足するでしょうか。 しないと思います。 罪は必ず罰せられなければなりません。悪がさばかれてこそ公平です。 ですから、聖にして義であられる神が罪を裁き、善と悪の区別をなさるのは当然です。 また、この世の裁判ではすべてを完全に裁く事は不可能です。人には限界があり、人は人の心の中を完全に知ることも出来なければ、その動機のすべてをも知り得ません。 故に、全知の神以外に正しく公平な裁きが出来ないのは当然です。 また、一度殺された人に、人間にはもう一度命を与えて生かす事は、絶対に出来ません。 しかし、神は、永遠の世界において、すべての人に公平で、かつ正しい報いを与える事の出来るお方ですから、それが出来ます。 これが理解出来ますと、神のなさる事はすべて正しく、素晴らしいと言えるのです。 「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」 伝道者の書12:13~14  

創世記ノート(4)

創世記ノ-ト(4)創造と三位一体 「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。 やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」 創世記1:1~2 聖書の示す神は三位一体の神、すなわち、父、御子(キリスト)、聖霊と呼ばれる三つの位格をもってご自身を現わしておられるお方です。 この三位一体の神は、その存在、本質、目的のすべてにおいて一つであられるお方です。それは有限の存在である人間の知性や理性では理解出来ませんが、信仰によって受け入れることが出来ます。 この三位一体の神が万物の創造に関わられた事は、まず冒頭の聖句、すなわち、創世記1:2により第三位格の神であられる聖霊の関与のことが解ります。 そしてさらに次の聖句によって第一位格の父なる神の関与が示されています。「また、万物を創造された神…」 エペソ3:9 「主よ。われらの神。…あなたは、万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」 黙示録4:11 その他数多くの聖句がその事を示しています。 さらに第二位格の子なる神が創造者であられる事も、次の聖句によって明らかです。 「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」 コロサイ1:16 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」 ヨハネ1:1~3 また、贖いのみわざにおいても三位一体の神が、それぞれの役割を果たされたことが、エペソ人への手紙1:1~14において、明らかにされています。 すなわち、1:3~6では父なる神のお働きについて、父は、選び、定め、祝福して下さった事が、そして、1:7~12においては御子なる神が、父のみこころに従って贖いの代価としてご自身を十字架上でささげて下さった事が、また1:13~14では、聖霊なる神が贖われた者が必ず御国を受け継ぐ事の保証として、証印となって下さった事が明らかに示されています。 これらの事を見ても、聖書の示す神は父、御子、聖霊の三位一体の神であられることは明らかです。 異端のもの、特にエホバの証人の人達は、その熱心さにおいては抜群で他の追随を許しませんが、最も大切なことに関しては霊の眼が閉ざされているようです。 その事は、使徒パウロが自分の同族であるユダヤ人について書いた事に類似していると言えます。 「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に(聖書協会訳によれば、”深い知識に”とあります。)基づくものではありません。」 ロ-マ10:1~2 また、次の聖句も関係があると思います。 「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イェスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イェスは主です。』と言うことはできません。」 Ⅰコリント12:3 さらに次の幾つかの聖句もまた、神が三位一体の神であられる事を示しています。 「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイ28:19~20 「主イェス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。 」 Ⅰコリント13:13 エホバの証人の人たちは、御子なる神であられるイェス・キリストを、造られた神の子であると言い、また、聖霊なる神については、単なる影響力であるかのように言つています。 ですから、残念ながら彼らは救いも、救いの確信も持っていません。 神のことばはその全体が真理ですから、その一部を権威あるものとして受け入れても、全体をそのままに受け入れなければ、神の救いと祝福は受けられません。 さてこれは、直接三位一体とは関係がありませんが、三つで一つであると考えられるものは、私たちの知る範囲においても少なくは無いと思います。 たとえば、宇宙は、時間、空間、エネルギ-の三つのものから成り立っていることは、科学者たちもこれを認めています。 また、色は三原色からとよく言われますし、時間についても、過去、現在、未来と言う表現で表します。さらに私たち人間も三つのものから成り立っていると、聖書は示しています。 「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イェス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 あなたがたを召された方は真実ですからきっとそのことをしてくださいます。」 Ⅰテサロニケ5:23~24 神と聖書の絶対性を堅く信じて立つことは、価値ある素晴らしい事であり、実に大きな神の恵みです。この恵みが無ければ誰一人として救われません。 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。 主のあわれみは尽きないからだ。 それは朝ごとに新しい。 「あなたの真実は力強い。 主こそ、私の受ける分です。」と 私のたましいは言う。 それゆえ、私は主を待ち望む。 主はいつくしみ深い。 主を待ち望む者、主を求めるたましいに。」 哀歌3:22~25 有限の存在である人間に神ご自身や、神のことばである聖書が全部理解出来るとしたら、神と言うお方は人間とあまり変わらない存在でしか無いと言う事になります。 しかし、そんな馬鹿な事は決してありませんし、また、あってはなりません。 現在は何事についても資格が物を言う時代です。ですから資格を持たないと出来ない事がたくさんありますし、またそれは必要な事です。 飛行士が資格なしで飛行機を運行させたなら、大変なことになります。時々医師免許を持たないで医療行為をする人がいますが、とんでもないことです。 これは本当に失礼な言い方なのですが、私は時々福音を伝えるときに言います。 「もし、神が神であられるために資格が必要であるとすれば、それはどんな資格でしょうか。」と。 そして私の考えは次の通りです。 まず第一に、神が神であられるための資格は、“自存自立”でなければなりません。 第二にその方は、無から万物を創造された方であるべきです。 そして第三に、すべてを保持し支配される方であり、 さらに第四に、時間を越えて永遠に存在されるお方であり、かつ、不変で無ければなりません。 第五に、その方は空間に支配されず、何時でもどこにでも偏在されなければなりません。 そしてさらに、第六に、あらゆる事のすべてを知っておられる全知、出来ない事の無い全能者であり、 また第七に、そのご性質、すなわち、聖、義、あわれみ、恵み、愛等あらゆることにおいて、完全なお方であられるべきです。 ではその様な神は何処に存在されますか。 聖書の神を除いては何処にもありません。 「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」 使徒17:24~25  

創世記ノ-ト(3)

創世記ノ-ト(3)謙遜、従順、忠実。 『初めに、神が天と地を創造した。』 創世記1:1 前回はこの聖句に示されている三つの事、すなわち神の主権、神のみこころ、神の取扱いについて記しました。 けれども、今回はこの三つの事に関連している別の三つの大切な事について考えますが、それは信仰生活の基本に関する事です。それを解りやすくしますと次のようになります。 1.神の主権に対しては謙遜 2.神のみこころに対しては従順 3.神の取扱いに対しては忠実 であると言う事です。 そして私たちはその素晴らしい模範をピリピ2章6~8の主イェスさまの歩みから教えられます。 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」 ピリピ2:6 キリストは、神の主権によって定められ、神がみこころとされた十字架の死という贖いのみわざを、実に忠実に成し遂げられた方です。 それ故に神はこのお方に、すべての名にまさる名を与え、最も高い所に引き上げられたのです。もう30年ぐらい前にある兄弟から教えられた事ですが、真の謙遜とは、ありのままで主の前に立つ事であり、また主のみこころに全てを委ねきって従う事であると言う事でした。 そして、その模範として主イェスの事を話されましたが、イェスは低くされる事においても、高くされる事においても全く父なる神に従順であられたこと、それがほんとの謙遜であると言う事でした。 日本人はよく自分を卑下して「私はつまらない者です。」とか、「これはつまらない物ですが。」と言いますが、心の中では決してその様には思っていません。 ですから、「あなたはほんとにつまらない人ですね。」とか、「つまらない物を戴きまして有り難うございます。」などと言うと、きっと怒るでしょう。 それは決して心から、「つまらない。」と思っていないからです。 ですから、日本人には聖書の示す真の謙遜が解りにくいのだと、よく言われます。 聖書の言葉は聖書の意味で受け取らないと大きな過ちをおかします。 その事は各自それぞれが、心に深く留めて置くべき事では無いかと考えます。 そして私たちも日々、主の主権を大切にして従い、事ごとに主のみこころを求め、主の取扱いのすべてが理解出来なくても委ねて祈りつつ歩みたいと願います。なお、この三つの事、すなわち、神の主権に対する謙遜、神のみこころに対する従順、神の取扱いに対する忠実の模範をもう一人の信仰の人、アブラハムから学んで見たいと思います。 『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょにここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。』 創世記22:1~5 アブラハムが75歳の時に、神は不妊の妻でしかも年老いたサラから、一人の子供が生まれると約束され、アブラハムが100歳の時にその通りになり、与えられたのがイサクです。 しかも神は、アブラハムとイサク及びその子孫を通して、地の全ての人々が祝福されると仰せられました。 にもかかわらず神は、「そのひとり子を全焼のいけにえとして、ささげよ。」と言われたのです。 常識的に考えれば、イサクが死ねば神の約束は反古になります。 また、長く待ってようやく与えられた、たった一人の子、最も愛するひとり子を、全焼のいけにえとしてささげよと言う神の言葉は、どれ程きびしくまた苛酷なものとして、アブラハムに響いた事でしょうか。 しかし、それでも信仰の人アブラハムは、その神の言葉に100%服従したのです。ここに私たちは、信仰の父と呼ばれている彼の、信仰と従順の素晴らしさを見せられます。 このアブラハムの行為を、先の三つの事に当てはめて見ますと次のようになります。 第一に、このアブラハムへの神の要求は、神ご自身の絶対的な主権に基づいていると言う事です。 そしてアブラハムは、彼の全き信仰から出た神への謙遜によって、結果がどうなるかを全く考えないで、そのひとり子イサクをささげたのです。真の謙遜とは、神が仰せられた事に対しては、何の疑問も持たず、不平をも言う事なく、神の善と全知、全能にすべてを委ねきる事です。 第二に、アブラハムが与えられたかけがえのないひとり子イサクを、全焼のいけにえとしてささげる事は、神のみこころであったと言う事です。 神のみこころは深く、永遠の時間と観点に基づいていますから、時としては人には全く理解できません。むしろ、理解できない事の方が多いと言っても良いでしょう。 人間は悲しい者で、有限の頭で物事を考え、捕らえ、また判断します。ですから、神の深遠なご計画やみこころが、なかなか分からないのです。 また、人間の希望や要望が強すぎると、自分の思いを神のみこころと勘違いします。 そして、自分の思いや願いがかなえられないと、神を恨むことさえするのです。 しかし、たとえ私たちに、理解できなくても、神が示される事がみこころとされるなら、自分の意思や希望を神ご自身の御手に委ねる時、神は平安を与え、また必ず最善を成して下さいます。 神のみこころへの全き従順は、内住の聖霊なる神の助けなしには出来ません。 そしてそれには、自分自身と自我が、十字架につけられて死んでいる事が、どうしても必要です。 アブラハムの神への従順は、まさに彼の十字架の死を示していると信じます。 第三に、神の取扱いに対しては忠実である事が求められます。 人が何かを取り扱いますと、多くの無駄な事をしたり、失敗を重ねます。その理由は、人には何が最善で、また、何時が最善の時であるかが分からない事が多いからです。 ですから、たとえばある人の事を取り扱うとき、相手の心の痛みや傷などを考慮しないで結論を出してしまいます。 また、しばしば配慮の足り無さの故に、間違った取り扱いをしてしまいます。それが善意でなされた事であっても、配慮や思いやりの足りなさ、説明の不足等などが重なるとき、とんでもない結果を出してしまいます。 所詮不完全で限界のある人間には、物事や人に関する完全な取扱いは無理だと言う事でしょう。 故に、徹底的な謙虚さと誠実さが要求されるのです。 また、信頼関係が確立されていないと、受け入れられる取扱いは、なかなか出来ません。 神のアブラハムへの取扱いは、何と素晴らしいものではありませんか。イサクの代わりに神は、初めから雄羊を備えておられました。 しかし、アブラハムには、勿論それが分かりませんでした。 ですから、神の取扱いに委ねきる信仰は、冒険的な信仰ですが、それは決して失望させられる事のない冒険です。 その冒険の繰り返しによって、人は神と神の素晴らしさを知り、神ご自身の栄光を見させて頂くのです。何と感謝すべき事ではありませんか。 聖書はこう言っています。 『「彼に信頼する者は、失望させられることがない。』 ロ-マ10:11 『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。』 Ⅰペテロ5:5~6 『従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。』 Ⅰペテロ 1:14~16 『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』 ルカ16:10 『その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」』 マタイ25:21 神の主権に対する謙遜、神のみこころに対する従順、神の取扱いに対する忠実、この三つの事に、いつも心を留めて信仰の道を歩ませて頂きましょう。 そのためには、まず何よりも祈りから始めることです。 もし私たちが、現実の自分自身の信仰生活と霊的な状態に満足していないなら、出来ることはすぐに始めるべきです。 人間はある事に感動しても、その事を出来ることからすぐに実行に移さないと、感動は薄れ消えていきます。ですから、聖霊のみ声を聞いたなら、何時までも待たず遅らせず、出来る事からすぐに始めるのです。明日は、何時まで待っても来ません。大切なのは今日です。 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」 ヘブル3:15 このイスラエルへの神の警告は、そのまま今日の私たちに対する警告でもあります。与えられた時、チャンスを失わないようにしたいものです。 聖霊に示されたとか、教えられたとか言いますと、ある人たちは、「今の時代にそんな事は無い。」と言いますが、それは正しい事でしょうか。 確かにカリスマ的な人たちの言うような極端な事や、聖書のみことばに反するような事を、聖霊なる神はなさいません。 しかし、私たちの内に住まわれるお方は、語って下さいます。 ある時はみことばを通して、他の場合は他の人を通して、また、書物や出来事を通して語られます。 それまで異端視されるなら、どうすればよいのでしょうか。 みことばだけを通してしか主は語られないと言うのが一つの信仰の在り方であるなら、他の方法を通しても語られるというのもまた信仰です。極端な排他的信仰は、神が与えようとしておられる祝福を見失わせます。 『「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」』 ピリピ2:13~14

創世記ノ-ト(2)

(2)主権、み心、取扱い   『初めに、神が天と地を創造した。』 創世記1:1  長い間私はこの創世記のみことばをそのまま信じて来ました。そして確かに色々な祝福を受けて来ました。 しかし、一昨年の12月に頃にふと次のような単純な問いかけを自分の心の中に持ちました。 宇宙が造られた目的 「何で神様はこの宇宙を造られたんだろうか。」 それから長くこの問いかけは私の心の中から消えませんでした。 そしてある時私は神ご自身から次のように示されたのです。 「わたしは造りたいから造ったのだ。」 私はその時、強い力で頭を何かでガ-ンと叩かれたような気がしました。 それから暫くして私は、この短い聖句に含まれている大切な三つの事を教えられたのです。  その三つのこととは、第一に「神の絶対的主権」第二に「神のみこころ」そして第三に「神のとり扱い」と言うことです。  この事が教えられてから後私には聖書がかなり解りやすくなりました。 多くの事にこの三つの事を当てはめますと、解りにくいことが解ってきます。 アブラハムの実例  実例の一つとして創世記22章のアブラハムがその一人子イサクを献げた事を考えてみると良く解ります。イサクを献げた事はすなわち、「神の主権」による「神のみこころ」であり、その後の事は「神の取扱い」であったと言う事です。 私たちの信仰生活にもいろいろな事が起こりますし、時としてはその意味がわからず、苦しいことが長く続くこともあります。 その時私たちの口から出る言葉は何でしょうか。 「どうして私にこんな事が。」 「これは何時まで続くのでしょうか。」 いくら祈っても神は答えて下さらない。 そんな時に、失望したり落ち込んだりせずに、信仰に堅く立つ秘訣は、先の三つのことを思い出し当てはめてみることです。 そうすれば、神ご自身がその絶対的な主権をもってなさるみこころには、無駄なことも、無意味なことも、無目的なことも何一つ無く、かえってすべてが必ず益とされることを覚える事が出来ます。 そしてそれは必ず感謝と賛美に変えられるのです。その事を覚えて歩みましょう。 なお、この三つの事に対応していることが、やはり三つありますが、それは次の通りです。    1.神の主権…………神の主権に対する全き謙遜。    2.神のみこころ……神のみこころに対する全き従順。    3.神の取扱い………神の取扱いに対する全き忠実。 キリストの模範 この三つの事を模範として示して下さったのが主イェス・キリストです。 その事を、ピリピ人への手紙第二章から見てみましょう。 『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 それは、イェスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イェス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』 ピリピ2:6~11 驚くべきご謙遜  主イェスが、人となられてこの世に来られたのは、御父がご自身の絶対的主権をもって、御子のために定められた事ですが、それは私たちには考えられないような驚くべき事です。 創造者が被造物の姿を取られると言う事は、何と言う驚くべきご謙遜ではありませんか。 人間は、人間以下の存在である生物、例えば、人間にあまり好かれないゴキブリのようなものになれと言われて、喜んでなれるでしょうか。 多分なれないと思います。 また、その様になったとしても、所詮、被造物が被造物になったに過ぎません。 しかし、キリストは神であられ、創造主であられます。そのお方が、被造物である人間になられ、しかも進んで、喜んでなって下さったのです。  ここに、この地上には絶対に無い謙遜があります。それは主が、天から持って来られた天的謙遜と言うべきものではないでしょうか。 主のご謙遜と従順に関する預言と成就 この主のご謙遜と、第二の従順に関係する預言は、旧約聖書の詩篇にあり、その成就は新訳聖書のヘブル人への手紙にあります。 『あなたは、いけにえや穀物のささげ物を お喜びにはなりませんでした。 あなたは私の耳を開いて下さいました。 あなたは、 全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、 お求めになりませんでした。 そのとき私は申しました。 「今、私はここに来ております。 巻き物の書に私のことが書いてあります。 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。 あなたのおしえは私の心のうちにあります。」』 詩篇40:6~8 『雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。 「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、  わたしのために、からだを造ってくださいました。  あなたは全焼のいけにえと  罪のためのいけにえとで  満足されませんでした。  そこでわたしは言いました。  『さあ、わたしは来ました。  聖書のある巻に、  わたしについてしるされているとおり、  神よ、あなたのみこころを行なうために。』」  …このみこころに従って、イェス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」』 ヘブル 10:4~7,10 主イェスが示された従順 主イェスが示された従順もまた、この地上では見られないものです。 罪の全く無い聖なるお方が、罪とされて架けられる十字架、恥と苦しみとのろいの木に、主イェスは私たちに代わってついて下さり、死なれたのです。 『さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。 三時ごろ、イェスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。』 マタイ27:45~46  ここに罪の全く無いお方の叫びがあります。 主イェスは、ご自身の死の目的を勿論はっきり知っておられました。 ですから、罪人の身代わりにとして、十字架上で神から捨てられることも、ご承知であられた筈です。 それなのに、何故この様な叫びが、と人は考えます。 しかし、それは、罪のない方のみが叫び得る叫びであって、私たち罪人には出来ない叫びです。 ある人は言います。 「あの叫びは、滅びに入れられた者が、地獄で叫ぶ叫びだ。」と。 しかし、それは違います。 罪人がさばきを受けて、どんなに苦しんでも、それは身から出た錆であって当然の事です。ですから、「どうして。」と言う叫びは出せません。 あの叫びは、罪のない方のみが叫び得る叫びです。 そしてそれは、罪に対する裁きの厳しさと、聖なる神にとって、罪とは、いかに忌まわしいものであるかを示すものです。 神の取扱いに全てを委ねられた方  このように、主イェスは、第三のこと、すなわち、神の取扱いに、全くご自身の全てをお委ねになられたお方です。ピリピ2:6~8は、イェスの下降の謙遜と従順を示す事がよく解ります。 しかし、私はもう三十年以上も前に、あるご兄弟から次のように教えられた事を、今思い出しています。  その兄弟は言われました。 「日本人には、聖書の言う謙遜がなかなか解らないですよ。何故なら、日本人は自己卑下する事だけを、大体謙遜と考えていますからね。しかし、真の謙遜とは、私はつまらない者ですと言うことではなく、神の主権に全く従い、全てを委ね切る事ですからね。」と。 主のご支配に完全にゆだね切ること それゆえに、低くされる事も謙遜であれば、それが神のみこころであれば、高くされる事に従うこともまた、謙遜であると言う事です。 その意味において、真の謙遜、従順とは、神の御手にすべてを全く委ね、神ご自身の取扱に任せきる事です。主の素晴らしい模範に学び、従いたいものです。 しかし、この様な謙遜、従順、忠実さは、私たちの中にはありませんし、また努力して出来ることでもありません。  ではどうしたら良いのでしょうか。 聖霊ご自身のご支配に完全にゆだね切ることです。今しなさいと言われる事をする事です。 それが神の主権とみこころに従い、神の取扱いに身を委ねる唯一の道と信じます。

創世記ノ-ト(1)

(1)天地創造と科学 『初めに、神が天と地を創造した。』 創世記1:1 この短いみことばの中に、その後に続く聖書のすべての事が含まれています。 ですから、この一つのみことばを受け入れることが出来れば、聖書の残る部分のすべてを受け入れる事が出来ますが、この一つのみことばが受入れられないとその後のすべても受け入れられません。 それ程この一つの聖句に聖書のすべてがかかっていると言っても決して言い過ぎではありません。 三つの科学的事実 この聖句にはまず、三つの科学的事実が示されていますが、それは宇宙に関する事です。 通常宇宙は、時間と空間とエネルギ-から成り立っていると言われますが、この聖句にはその三つのものが明らかに含まれています。すなわち第一に時間ですが、それを示すのが「初めに」と言う言葉であり、第二に空間ですがそれは、「天と地」と言う言葉に示されています。そして第三にエネルギ-ですが、それは「神」ご自身が人格を持たれるエネルギ-であられると言う事です。 この様に、聖書は決して科学の教科書ではありませんが、科学を全く無視している宗教書でも無ければ、神学書でもありません。この事を偏見無く理解しておくことが聖書を正しく学ぶ前提となることは言うまでも無いことです。 また、これらの事は、他の人々に福音を伝える時に、神の言葉である聖書に対する誤解を解くのにも役立つと思います。私たちは聖霊ご自身の助けをいただいて聖書を学ぶとともに、そのお方の助けをいただくことによって正しく伝えることが出来ます。 そういう意味で、聖書をいろいろな角度から学ぶこともまた決して無益では無いでしょう。 実際の信仰生活との関わり それでは、この三つの事は、私たちの実際の信仰生活には、どの様な関わりと教えがあるでしょうか。 そこで私は、この三つの事について少し考えて見たいと思います。 何時までも生きられない 第一に時間の事です。私たちはこの世界で何時までも生きる事は出来ません。 すなわち、人間は時間の制限の中に生かされている存在であると言う事です。 私たちは時間に制限されていますが、神は時間を超越されている方です。そして、神の言葉である聖書は、人の時間の制限を越えた、神の時間または、永遠と言う観点から書かれている書物です。 ですから、それを踏まえて読み、また学ばないと聖書は難しくて理解できません。人がその事を率直に認めてへり下り、真心から神に助けを求めて祈るなら、神は御聖霊の働きを通して、ご自身のみこころを示されます。その時、人はみことばを悟ることが出来るのです。 この地上の人生で、私たちに与えられている時間は限られており、しかもそれは、わずかです。 健やかであっても八十年 『私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年。 しかも、その誇りとするところは、労苦とわざわいです。 それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 だれが御怒りの力を知っているでしょう。 だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。 その恐れにふさわしく。 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。 そうして私たちに知恵の心を得させてください。 …あなたは人をちりに帰らせて言われます。 「人の子らよ、帰れ。」 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、 夜回りのひとときのようです。 あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。 朝、彼らは移ろう草のようです。 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消え失せ、 あなたの激しい憤りにおじ惑います。』 詩篇90:10~12.90篇3~7 神の望み 神は、一人一人の人間に生きる時間を与えておられますが、人はその与えられている時間の中で、まず神と出会い、御子の十字架と復活による永遠の救いを受ける事を、何よりも望んでおられるのです。 しかし、もし人がそれを拒むなら、死とともに永遠の滅びに入ります。それは、最も悲しく、また恐ろしい事です。故に、人は与えられている時間の中で、まず救いを受けるべきです。 人の一生として与えられている時間は、長いようであってあっという間に過ぎ去って行きます。 そして、一度それを失うと永遠に取り戻すことは出来ません。人は自分のいのちに対してすら全く無力な存在でしかありません。 呼ばわれと言う者の声 『「呼ばわれ。」と言う者の声がする。 私は、 「何と呼ばわりましょう。」と答えた。 「すべての人は草、 その栄光は、みな野の花のようだ。 主のいぶきがその上に吹くと、 草は枯れ、花はしぼむ。 まことに、民は草だ。 草は枯れ、花はしぼむ。 だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」』 イザヤ40:6~8 第二に空間=場所 第二に空間、すなわち、場所のことです。神は人間やその他の被造物の時間に拘束されてはいません。神ご自身は、それらの時間の外におられるお方です。 それと同じ様に、神はまた、人間やその他の被造物のように空間に縛られているお方ではありません。神ご自身は、すべての事において無限の存在であられます。 それゆえに、神は一切の時間や空間を越えて、何時でも、何処にでも偏在なさるお方であられます。この様な無限の事は、有限の人間には理解できません。それは人知を遥かにこえている事です。その神は、広大な宇宙の中の一つの星である地球を、人間の住まいとして創造されました。 『天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てられた方、 これを形のないものに創造せず、 人の住みかに、これを形造られた方、 まことに、この主がこう仰せられる。 「わたしが主である。ほかにはいない。」』 イザヤ45:18 人の住まいは地球を含む天と地 ですから神は、人の住まいが、この地球を含む天と地に限られていると言われ、それにこだわられます。 この故に、御子イエスの死と復活による贖いによって、備えておられる贖われた者たちの住まいは、サタンと人間の罪と反逆による破壊と悲惨から解放され、回復された新天新地と定めておられるのです。 その新天新地のことは、新約聖書ヨハネの黙示録21~22章に書きしるされていますが、勿論、人間に理解出来るように、いろいろな宝石や金銀、真珠などを通して示されています。 それはそれとして、この天の御国の都の一番の素晴らしさは、神と小羊がそこにおられる事です。それが一番重要な事です。 『もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。』 黙示録22:3~5 主イェスは、十字架にかかられる前に、二階座敷で弟子たちと最後の晩餐を共にされましたが、その時、ご自分が備えられた住まい、すなわち、弟子たちを迎え入れて下さる父の家について、次のように言われました。 心を騒がしてはなりません 『「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』 ヨハネ14:1~3 間もなく、この主の約束が文字通り実現する日が来るでしょう。その日を待ち望みながら、ますます信仰の道を忠実に歩ませていただきましょう。 エネルギ-は力の神 第三の事は、エネルギ-、すなわち力の事です。神ご自身は、力の神であられますから、その意味において、神は、人格を持たれる偉大なエネルギ-であられると申しても、許されるでしょう。 『主よ。御力のゆえに、 あなたがあがめられますように。 私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。』 詩篇21:13 『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』 ロ-マ1:20 『しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。』 Ⅰコリント1:24 聖霊ご自身も力 神と主イェス・キリスト、さらに聖霊ご自身も、力であられる事を示す聖句は数多くあります。 神の力は偉大であり、神にとって成し得ないことは何一つありません。 確かにすべての生物には、それぞれに必要な力が与えられており、人間にもまた人間なりの力が与えられています。そして、人の力は小さな動物より大きいでしょう。けれども、より強く大きな動物に対しては人間は無力です。 しかし、人間には動物に無い知恵が与えられており、人は、その知恵を用いて強い動物にも勝つ力を生み出す能力を持っています。 また人間には、自然界にある力、すなわち風や水、波や電気、そしてさらに近代は原子力などの力を利用する知恵が与えられていますし、開発、利用して来ました。 またそれとともに、人間には物理的な力や機械力を発見、発明する能力も与えられています。 しかし、たとえそうであっても人はやはり有限の無力な存在であり、また、その力や知恵にも限界があります。特に、倫理的な事や道徳的な面においては人は驚くほど無力であると言ってもよいと思います。ではここに、使徒パウロの言葉をここに引用してみましょう。 『私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行なっています。 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 …私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。』 ロ-マ7:19~20,24~25 この様に人間には弱さがありますが、それを最もよくご存知であられます神は、特に、神を信じる者には特別の力を与えて下さいます。それを見ましょう。 十字架のことばは神の力 『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』 Ⅰコリント1:18 『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』 エペソ1:19 主イェスは、福音の世界宣教に弟子たちを送り出される前に、無力で愚かな彼らのために、聖霊ご自身が力となられる事を約束されました。 『「さあ、わたしは、わたしの父が約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』 ルカ24:49 『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。』 使徒1:8 世界宣教 この力を受けて弟子たちは、世界宣教へと旅だって行き、今日のように全世界に福音が宣べ伝えられたのです。 そして今、その使命は私たち日本のクリスチャンにも託されています。しかし、この日本では現在のところ、福音が大きな力を持って伝わっていません。 ここに、神ご自身の悲しみがあり、神は今、神ご自身と心と思いを一つにして、神の力を受けて立ち上がる者たちを求めておられますが、それは私たちの祈りから始まるのです。 私たちは、あくまでも、神のしもべであり、かつまた、器に過ぎません。しかも弱くて力のない者たちです。 その様な私たちに、現在最も欠けている祈りは、主の絶対的な主権を徹底的に認め、主ご自身を主の位置に正しく置く祈り、すなわち、主の主権を全面的に確立する祈りであると私は強く信じ、また祈っています。 […]