創世記ノート(5)
神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。 創世記1:4 神によって多くのものが区別されたことを、この創世記1章は記しています。1:4では光と闇、1:6では大空の上と下の水、1:14では昼と夜、1:15では再び光と闇(昼と夜)が区別されています。 そしてそこには明らかに何かを示す重要なことが隠されているようです。 暫く前に私はこの事から、直接区別という言葉は使われていませんが、もっと大切な区別の事を教えられました。創世記1:9~12にはすべての植物が、1:20~25では海の巨獣と水に群がりうごめくすべての生き物、翼のあるすべての鳥が、そして地の生き物、すなわち家畜、はうもの、野の獣が種類にしたがって造られています。 そこには区別と言う言葉が10回も使われています。 しかし、人間だけは種類にしたがって造られず、神ご自身のかたちに創造されたと明らかに書かれています。 そして私はこれこそが最も重要な区別であると受け止めています。すなわち人間は、動物から進化したものでは無いと言う事です。 この区別は別の言葉で表現すると、あるものとあるものの間に神は、絶対に越えてはならない溝または淵のようなものを置かれたと言う事では無いでしょうか。 そしてその事に敵対する悪魔は、あらゆる手段を用いてその区別を破壊し、取り除こうとしています。 その一つのものが進化論であり、多くの人がこの学説によって迷わされています。そこから出てくる一つの重大な事は、現代の社会における、あるいは教育においての真の生命の価値評価観の喪失、また誤解では無いでしょうか。 勿論過去においても皆無とは言えませんが、今日ほど知識が増しているにもかかわらず人の命が軽視され、かつ、その尊厳さが忘れられている時代は無いのではないかと思います。 あまりにも簡単に他の人の命を奪ったり、自殺に走る事の悲しさ。そこには何か重要なものが見失われていると言う感じがします。 しかし、人間の命の尊さと尊厳さをほんとに正しく知るためには、何が必要なのでしょうか。 言うまでもなくそれは創造主の権威あることば、すなわち不変の真理と言われている聖書に聞く以外にはありません。 「また聖書か。」と言われる前に、一度それを読まれる事を心から願ってやみません。今日の世界では、多くの事が誤解され、また、誤って考えられています。 その一つに、区別と差別と言うことがあります。差別という言葉を辞典で調べてみますと、次のように説明されています。 “ちがい。けじめ。分けへだて。また、不当な区別。” このうちの、“ちがい“と“けじめ”は何の問題もなく使われる言葉ですが、“分けへだて”と“不当な区別”は良い意味では使われません。 では区別はどうでしょうか。この方は辞典では次のように説明されています。 “別々に分けること”“さべつ”“けじめ” この二つの言葉には、双方に共通点もあるようです。 ですから、問題はその言葉を何処で、どの様に使うかと言う事に関係があるようです。従って良い意味に使えば問題は無く、悪い意味に使うと、問題になると言う事です。光と闇を区別された神は、良い意味において、様々なものを区別されますが、人々がよく問題にするのは、信者と不信者に対する区別です。 神は決して人に差別をつけておられません。神の前における人間は、すべて平等です。神の前には、重度の障害を持っている人の価値も、健全なからだを持って生きている人も、その存在の価値は変わりません。 ですから、神は罪深い人間の救いのためには、すべての人のために全く平等の救いの代価として、御子イェス・キリストの命をお与えになられました。 そして、キリストを信じた者には、神の子となる特権をすべての人に与えられます。 「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 |