創世記ノ-ト(6)

創世記ノ-ト(6)人間と動物の区別
神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。 創世記1:4

神は多くのものとものの間に溝または淵のようなものを置かれて区別された事を前回は考えましたが、聖書全体にはもっと色々なものの区別が出てきます。そしてそれは、考える以上に重要な意味のあることです。
神に敵対する悪魔は各時代にわたってこの区別を破壊し、溝または淵を越えさせることを神を信じない人々を用いて続けて来ました。ではここでその一つのもの、すなわち動物と人間の区別に対しての悪魔のした事について考えて見ましょう。今の私に解っていることは大体三つの事です。(1)進化論。進化論は動物と人間の間を理論的、かつ学説的につなごうと努力し、あたかもつなげたかのように教え宣伝していますけれども、それは単なる学説に過ぎない事が、最近はっきりしてきていますが、この日本ではそうした重要な事については、ほとんど正しく報道されていません。(2)動物の肉体を用いての人間の臓器の製造及び、動物の臓器の人間への移植。しかしこれは人間の持つ免疫機能による拒絶反応により阻まれています。それでもなんとか出来ると考え、しようと努力していますが、その事によって起こる事の危険性や恐ろしさは、あまり取り上げられません。

(3)遺伝子操作による動物と人間の何らかの接続。それがどの様なものであるかはまだ明らかではいませんが、不気味なものを考え出す可能性があり、罪深い人間か何を作り出すか予測できませんが空恐ろしいものを感じさせられます。
*四月末にクロ-ン羊のドリ-が、交尾により子羊を出産したという発表がありました。      と言う事はその子羊がさらにこどもを生むことが出来ると言う事を意味しており、それはさらに次々とこどもを生み続けることが出来ると言う事になります。しかもそれは人間にも適用できると言う事も言っています。      そうした事が継続されると、人間とは何か、自分はいったい誰の子なのかと言った、大変複雑な問題が生じて来る可能性があります。そうした混乱を創造主なる神は決して許されないと信じますが、この世界はますます混乱と複雑さを増し加えて行くようです。      いのちの道よりも、知識の道の方を選んだ人間の愚かさは、いつかその実を刈り取る事になるでしょう。神への不信仰と反逆の道には、真の祝福が無いことは明らかですが、それでも大多数の人はそれを認めようとはしません。罪とは、どこまでも恐ろしいものです。

私たちは、悪魔に騙されないように目を覚ましている必要があります。また、私自身はこの最も大切な、かけがえのない命について、人間がいじくり回すことを、創造者であられる神がどこまで許されるか、と興味を持って見守っています。
それは、この事に関しても、神ご自身が定めておられる許容限度に達するとき、必ず神がご自身の主権と絶対的な力を持って介入され、裁きを下されると確信しているからです。
そして、その一つの実例を創世記第六章のノアの時代の洪水による裁きに見ています。

主は、人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
…時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。
神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。
そこで神はノアに言われた。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。」 創世記6:5,11~13(聖書協会訳)

人類の創造者なる神への反抗と反逆が、神の許容の限界点に達するのは何時でしょうか。
それは私たちにはわかりませんが定められています。そして神はそれを必ず実行されますが、その事を確証するのが主ィェス・キリストの復活である事が、次のように記されています。

なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方(キリスト)を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。 使徒17:31

この故に、今こそ主イェス・キリストを自分の救い主と信じて、神の裁きから救われる事が大切であり、かつ必要です。愛の神は長く忍耐されて、今もすべての人が救いを求めてご自身のもとに来るのを待っておられます。

しばらく前のことです。それはたしかアメリカのある生物学者が発表した事と思います。
二匹の猿の首と胴を切り離し、これを相互に入れ替えてつないだと言う事です。その結果、一匹は殺し、他の一匹は生かしたのです。こうして二匹の猿から、新しい一匹の猿を造り出しました。
そして、その学者は言いました。「これは、いつか人間にも応用出来る。」と。
今のところ脊髄をつなぐ事が出来ないので、その猿は動くことが出来ないとの事でしたが、近い将来には、脊髄の接続も出来ると言う事です。
人間、そして学者は、何と言う恐ろしい事を考え出すのでしょうか。勿論、それは神を恐れない人のする事です。
そして、その目的はいったい何でありましょうか。人の命を何時までも存在させるためであると言う事です。
聖書は、人が死ぬのは罪があるからであると断言します。

罪から来る報酬は死です。 ロ-マ6:23上句

人が神の前に無罪を立証する方法は簡単です。
死なずにいるか、死んでも復活すればよいのですが、それは誰にも出来ません。故に、人はみな、自らの死によって、その人自身が罪人である事を実証しているのです。
ですから神は、その罪人を救うために、そのひとり子イェスを救い主としてこの世界に送られ、罪人の身代わりとして、無罪のイェスが全人類の罪を負われ、十字架の上で罪に対する神のさばきを受けて死なれたのです。
しかし、イェスは、罪の全く無いお方ですから、三日目に死と墓を打ち破って復活されました。
そして神は、ご自身の主権とみこころによってお立てになったイェス・キリストを、自分の唯一の救い主と信じる人に、救い、すなわち、罪の赦しと永遠のいのちを与えて下さるのです。
これこそ、神の大きな恵みによる救いであり、この救い以外に、人を罪とその結果である死また滅びから救うものは他にありません。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イェスにある永遠のいのちです。 ロ-マ6:23

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです。 Ⅱコリント5:21

「しかし、彼(アブラハム)の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イェスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イェスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえれたからです。
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イェス・キリストによって、神との平和を持っています。 ロ-マ4:23~5:1

一度死ぬ事と、死後にさばきのある事は誰も否定できず、また、死後の運命は誰一人として変えられません。
ですから、今、生きている時に主イェスを信じて、永遠の命を神からいただくべきです。

少し余談になりますが、ここにもう一つの考えなければならない命に関する事があります。それが何かと言いますと、子供を生むことに関してです。
確かにこの世界には、結婚しても子供に恵まれない夫婦がいます。そういう場合、昔は誰かの子供をもらって育てるか、養子縁組をすることによって子供を持ちました。
もうかなり前からですが体外受精と言う事が行われるようになり、不妊の夫婦にも子供を持つ希望が与えられました。しかし、その場合にも卵子、精子の提供者は秘密にされていたと思います。はっきりとした法的根拠は無いようですが、一応それが守られていたようです。
けれども、今回の長野県下諏訪町、諏訪マタニティ-クリニックの根津八糸広院長は、非配偶者間の体外受精を行ない、卵子、精子の提供者を公表しました。
勿論、当事者の希望によるものであったと言う事ですが、やはり学会に問題を提供する結果となりました。
こうした事はこれからも行なわれるでしょうが、いろいろと厄介で複雑な問題を引き起こす事になりかねません。
神の定められた方法は、あくまでも結婚した当事者間で子供を生むことです。それがどんどん破られていくとき、家族間や社会に複雑な問題を起こすでしょう。時代遅れと言われるかも知れませんが、やはり神に従う所に、真の平和と平安があるのでは無いでしょうか。
命の問題は、科学と医学の発達と、技術の進歩に伴いますます複雑になり、新しい社会問題を生み出すでしょう。
やはり人間は、創造主なる神に従うべきであると強く感じます。